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地球防衛部という幻像

(このエントリはこのへんの記事を前提としています。
アイドルとレスとキャラクター 西山宏太朗という光源
オールドスクールとニュースクール
白井悠介という男について - すべては個人的な意見


先週の日曜日、日比谷公会堂で『美男高校地球防衛部LOVE!』のイベントを見てきました。声優のおたくは基本的にアニメのイベントにはあまり歓迎されないというか、どうしてもいづらい雰囲気を感じてしまうものですが、防衛部の現場は良くも悪くもそういう感じがしないなといままで思っていました。が、この日はどうもかすかな、ほんとうにかすかですが違和感があったのです。それはもしかしたら、声優として格段に場数の違う征服部のふたりが参加していたことや、こんなにイベントをたくさんやっているのにはじめて朗読劇をやったこと(たしかにアニメのイベントとして考えたら福山潤の言うようにこれはおかしいのですが、防衛部というコンテンツを象徴している事実のひとつなのではないかと思います)によるものだったのかもしれませんが、そのときはとくに気にも留めませんでした。
その一週間後、つい一昨日アイドルマスターサイドエムのイベントに行ってきました。わたしはアイマスにかんしては通り一遍の知識しかないのでそこについて詳しく語ることはできませんが、アイドルマスターという作品もまた演者とキャラクターの関係性について複雑なねじれを持っていると思います。ひとまずサイドエムにかんしては、かれらはステージの上ではふだんの声優としての自分でもなく、かといって完全に演じるキャラクターに同化しているのでもなく、それぞれこの作品関連でしか使われないあだ名を与えられた第三の『キャラクター』として振る舞っているように見えました。つまり、白井悠介でも若里春名でもなく『しらにぃ』として、あるいは梅原裕一郎でも鷹城恭二でもなく『うめめ』として。それはたかだか呼び名の問題であるように一見思えるけれど、言語が世界を規定する以上、どの名前で呼ばれるかということはステージ上での振る舞い、また自分をどう見せたいか/自分がどう見られていると思っているかに大きく関わってくるのではないかと個人的には考えてます(だからこそ西山宏太朗も『たろり』という呼び名にこだわるのだと思います)。それは本人としても自覚的な切り分けであり、だからこそある種露悪的にすら感じられることもあるのですが、しかし防衛部も奥底では同じ構造なんじゃないかと気づいたのです。
防衛部は5人でぐだぐだとしたニコ生をやったり、ぐだぐだとした旅行に行って虚実のあわいが曖昧なドッキリをやったり、作品に関係あるのかないのかわからないぐだぐだとしたイベントをやったり、5人のゆるやかな日常のイメージを押し出したリアリティショウ的な展開が強い作品です。が、それがカメラや観客の視線に晒されている以上、そこにいるのはやはり完全に生身の演者本人ではありえず、いわば自分自身を演じているような状態にならざるを得ません。それ自体は当たり前のことなのですが、わたしたちの実生活でもいちど定着した"キャラ"が簡単には覆らないように、展開が続くにつれて固定化した"キャラクター"がカリカチュアライズされていき、一定の側面が強調されていった結果としての固定観念でしかかれらを捉えられなくなってしまうのではないかと思ってしまったのです。そして防衛部というコンテンツが成功した原因もそこにあるとわたしは考えてます。
たとえば最初の箱根旅行の段階では、まだ5人の位置づけはそこまではっきりしておらず、映像のなかでも曖昧模糊とした会話が続きます。しかし現場の数が重ねられるにつれ、各人のキャラクター造形ははっきりしていき、余分な側面は削ぎ落とされてきています。礼儀正しく熱いマジレス男、いじられキャラの最年長、男前な乙女、クールなイケメン、おバカで女性的なMC。若手声優を前面に押し出した商法によって5人のキャラ立ちはしっかりと差別化されていき、非常にわかりやすくキャッチーなバランスが確立されました。それほど声優に興味がなかったひとでも、パッと飛びついてしまえるような。そうそれはまさに束ものアイドルたちがことさらに『なになに担当』と自己紹介するかのような……。
そのわかりやすさは圧倒的に正しいし、魔界王子にはそのわかりやすさがなかったことを考えると、よかったなあと心底思うのですが、しかし、そこからこぼれ落ちてしまう本質があるのも確かだと、あくまで個人的には思うのです。そして防衛部というコンテンツを見ているひとと、その構成員たち個人を見ているひとでは、確実に(それは良い悪いではなく)見えている世界が違うんじゃないかとも。かれらはアニメのなかのキャラクターを演じていなくとも、『地球防衛部』というグループの一員としてのカリカチュアライズされた自分(というキャラクター)を演じている。しかし問題なのはそこに演じているという自覚が介在しないことです。本人たちはキャラクターとして振る舞っているつもりでなくても、そこに確かなキャラクター性が生まれてしまうのです。裕一郎さんは防衛部のステージでももちろん楽しそうにしているけれど、防衛部以外の現場にいるときのほうが伸び伸びとして見えるなあと不思議に思っていましたが、それは前者ではもはや冷静沈着なイケメンキャラとしての(あくまで括弧つきの)『梅原裕一郎』として振る舞っているからなのかもしれません。このひとはこういうキャラクターなんだという前提条件をみんなが暗黙のうちに共有したうえで繰り広げられるさまざまは、どこか二次創作的な光景を現出させるとすら言えるでしょう。
自分のカリカチュアを無意識に演じる、ということは解釈の選択肢を増やしてしまうので、どうしてもステージ上の振る舞いからはメタ的な解釈が生み出され、虚実のあわいは限りなく曖昧になります。アニメ2期が発表された瞬間、かれらがほんとうにそれを知らなかったのか、気づいてはいたけどそれでも感極まって思わず泣いてしまったのか、気づいてはいたけど自分のキャラクターとして無意識に泣いてしまったのか、それはもはや誰にも、ステージの上の演者自身にも判断できません。それによってかれらの振る舞いは実質どうとでも解釈することが可能となり、結局かれらは二次元的な存在と化してしまうのでした。
すごい乱暴な結論! 正直書いてる途中で飽きました。でもカリカチュアライズされた自分を演じるというのはべつに目新しいことではなくて、要は男性声優のコンビ売りって完全にこの手法なんですよね。成功するコンビ売りはおたがいのキャラづけ、どういう関係性かというコンセプトがしっかり定まっているのだろうし、つまりつまりだから自分はそういうのにあんまり素直に沸けないんでしょうね……。決まった役割のルーティンもまあ頭使わなくていいし心地良いけど、その隙間からもっと思いもよらない側面を覗き見したいなとも思うのでした。それは役柄にたいしても思うけど、でもそのへんはリュウサンとかああいうちょっと変化球の役が来ることによっていいバランスになってきてるかなあというところ。やっぱリュウサン最高だな!
ま、とかなんとか言ってますけど、結局防衛部は好きだしひょろっと男子も好きだしなんだかんだ現場も行くんですけどね。お勉強野郎はほかのみなさんにまかせて現場ではひたすらレスの話しかしてないし、所詮アイオタなんてこんなもんだな/(^o^)\