過去ログ

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才能のある、あるいは技術のあるアイドルを好きになったとして、なんらかの理由で(本人の過失とかではなく)不可抗力的にその才能や技術が失われてしまった場合、それでもそのアイドルを変わらずに好きでいられるだろうか?ということを考えている。というか、東京女子流を見ながらそういうことをいつも考えていた。この世とは皮肉なもので、べつに自分がそういう思考をしていたからとか言う気はさらさらないけれど、いわゆる自分の推しであるところの小西さんはその通り以前のように歌えなくなってしまい、その問いは空想ではなく現実のものとして自分の前に突きつけられた。
答えとしては、才能はそのアイドルを好きになる入り口のひとつでしかなく、もはやそのアイドルの存在自体が好きになっている段階においてその問いは一見無意味に思える。しかし、同時に才能や技術はそのアイドルを支える重要な構成要素でもあり、ではそれがどこまでなら失われてもかまわないのか、言い換えればどこまで才能が失われても自分が好きになった彼/彼女と同一存在と言えるのか、それに対する答えはまだ出ていない。さらに言えば自分がいまだ小西さんを好きでいられるのは、いつか彼女の歌声が元のように復活するだろうという希望によるところが大きく、では今後数年単位でこのままの状況が続いてもその希望を維持できるだろうか?と言われると難しい気もする。
歌って踊るアイドルとしてステージに立つ以上、才能や技術を評価されるのはしごく当然のことではあるのだけど、そこにばかり価値を見出しがちな自分にときどき嫌悪感を抱かざるをえないのも確かだ。小西さんの喉が回復するためには歌割りの変更もやむなしと思うものの、かといって新曲では思いっきりパート与えてるじゃんとか、もうなにがなんだかよくわかんないし、、、自分がスキル至上主義だからよけいなことを気にしすぎているだけなのかもしれない。現にアイドルとしての女子流は変わらず活動を続けているわけだし。



っていう下書きを4月2日に作っていたのですが着地点を見つけられず下書きのままにしていました。
どういうわけだか奇跡は起きて6月15日に小西さんの歌声は元どおりに、いや、以前よりももっとずっと進化して戻ってきました。しかし次見るときにどうなっているかなんて誰にもわからず、この問いは決して解決したわけではありません。ある意味ご都合主義的な奇跡が起こらず、小西さんのパートがずっと中江さんのものになっていた未来だってありえたわけですし、また同じような問題が起こらないとも言い切れないのですから。
それでもそのアイドルをいままでと同じように好きでい続けられるだろうか? 信じられるだろうか? なるべく考えないで済ませたい問題なのですがいずれまた直面したときのためにとりあえず記事にしておきます。